ネイチャーポジティブ経営の実践:生物多様性リスク・機会評価から戦略構築まで
ネイチャーポジティブ経営とは何か、なぜ今企業にとって重要なのか
気候変動と並び、地球規模の課題として生物多様性の損失が喫緊の課題として認識されています。企業活動は、自然環境に依存すると同時に、多大な影響を与えています。この生物多様性の損失を食い止め、回復させるための取り組みが「ネイチャーポジティブ」です。
ネイチャーポジティブとは、「2030年までに生物多様性の損失を止め、回復軌道に乗せる」という目標であり、企業レベルでは、自らの事業活動が自然環境に与えるマイナスの影響を最小限に抑え、さらにプラスの影響、すなわち生物多様性の「ネットゲイン」を目指す経営姿勢を指します。
気候変動対策であるカーボンニュートラルが「排出量ゼロ」を目指すのに対し、ネイチャーポジティブは「損失ゼロ」からさらに「回復・増加」を目指すという、より積極的なアプローチが必要となります。
なぜ今、企業にとってネイチャーポジティブ経営が重要なのでしょうか。これには複数の要因があります。
- 法規制の強化: 各国で生物多様性や生態系保全に関する法規制が強化される傾向にあります。
- サプライチェーンリスク: 生物多様性の損失は、原材料調達の不安定化、操業停止、コスト増加など、サプライチェーン全体に深刻なリスクをもたらします。
- 市場機会の創出: 自然資本や生態系サービスの回復・保全に関連する新たな技術やサービスへの需要が高まっています。
- ステークホルダーからの圧力: 投資家、顧客、従業員、市民社会など、多様なステークホルダーが企業に対し、生物多様性への配慮や貢献を強く求めるようになっています。
- 企業価値の向上: ネイチャーポジティブへの貢献は、企業のレジリエンス強化、ブランドイメージ向上、イノベーション促進につながり、長期的な企業価値向上に貢献します。
このような背景から、ネイチャーポジティブへの取り組みは、もはやCSRや任意のアクションではなく、企業の存続と成長に関わる戦略的な課題として位置づけられるようになっています。本記事では、企業がネイチャーポジティブ経営を実践するための具体的なステップについて解説します。
ネイチャーポジティブ経営を実践するためのステップ
ネイチャーポジティブ経営への道のりは、一朝一夕に達成できるものではありませんが、体系的なアプローチにより着実に進めることが可能です。ここでは、その主要なステップを解説します。これは、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)が推奨するLEAPアプローチとも整合性が高いフレームワークです。
ステップ1: 依存とインパクトの評価(Locate & Evaluate)
まず、自社の事業活動がどのような形で自然環境に「依存」し、どのような「インパクト」を与えているかを特定し、評価することから始めます。これは、事業拠点、サプライチェーン、製品・サービスなど、事業活動のあらゆる側面について行う必要があります。
- 依存の評価: 事業継続に不可欠な自然からの恵み(水資源、 clean air, 肥沃な土地、安定した気候、 pollinator など)を特定し、それらが失われた場合のリスクを評価します。
- インパクトの評価: 事業活動が自然環境に与える負の影響(土地利用の変化、汚染、気候変動、天然資源の過剰利用、外来種の持ち込みなど)を特定し、その程度を評価します。
この評価においては、地理的な情報(どの地域の生態系に依存・影響しているか)や、特定の生態系サービス(例: 浸水防止、水質浄化、炭素隔離など)との関連性を詳細に分析することが重要です。TNFDが提案するLEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)の最初の2つのステップに相当します。
ステップ2: リスクと機会の特定(Assess)
ステップ1で特定した依存とインパクトの評価に基づき、生物多様性の損失が事業にもたらす「リスク」と、ネイチャーポジティブへの貢献によって生まれる「機会」を特定します。
- リスクの特定: 法規制リスク(新規制導入によるコスト増)、操業リスク(原材料不足、自然災害による事業中断)、市場リスク(製品・サービスの需要減退)、評判リスク(ネガティブなイメージ)、財務リスク(資産価値の低下、融資条件への影響)など、多様なリスクを特定します。
- 機会の特定: 新規事業・サービス創出(自然環境を保護・再生する技術やコンサルティング)、コスト削減(資源効率化、生態系サービスの活用)、レジリエンス向上(多様なサプライヤー確保、自然災害への対応力強化)、ブランド価値向上、従業員のエンゲージメント向上など、ネイチャーポジティブに関連する機会を特定します。
これらのリスクと機会は、事業戦略や財務計画に統合されるべき重要な要素として扱われます。
ステップ3: 戦略と目標の策定(Prepare - Strategy & Metrics)
リスクと機会の特定を踏まえ、ネイチャーポジティブへの貢献を明確に位置づけた企業戦略と具体的な目標を策定します。
- 戦略の方向性: ネイチャーポジティブへのコミットメントを企業のビジョンや既存のサステナビリティ戦略に統合します。バリューチェーン全体での影響削減、自然再生への投資、ステークホルダーとの協働などが戦略の柱となりえます。
- 目標設定: 定量的または定性的な目標を設定します。「2030年までに〇〇地域での水の利用効率を〇〇%向上させる」「自社敷地内の生物多様性保全面積を〇〇ヘクタール拡大する」「サプライヤーに対し生物多様性配慮を求める基準を導入する」など、具体的で測定可能な目標が望ましいです。SBT for Natureのような目標設定フレームワークの検討も進んでいます。
ステップ4: 具体的な取り組みの実施(Implement)
策定した戦略と目標に基づき、具体的な取り組みを実行します。これには、事業活動のさまざまな側面での変革が含まれます。
- サプライチェーン: 原材料調達基準の見直し(持続可能な林産物・農産物など)、サプライヤーへの働きかけ、トレーサビリティの確保。
- 事業所・敷地: 生物多様性保全のための緑地管理、再生可能エネルギー導入、水使用量削減、排水管理の徹底。
- 製品・サービス: 環境負荷の低い設計(エコデザイン)、循環型ビジネスモデルの導入、生態系保全に貢献する製品・サービスの開発。
- 地域社会との連携: 生物多様性保全プロジェクトへの参画、地域住民やNPOとの協働、環境教育の実施。
ステップ5: モニタリングと評価
実施した取り組みの進捗や、自然環境へのインパクトの変化を継続的にモニタリングし、評価します。適切なKPI(重要業績評価指標)を設定し、データを収集・分析することで、取り組みの効果を検証し、必要に応じて戦略や目標を見直します。
生物多様性や生態系サービスの状況を定量的に測定することは容易ではありませんが、リモートセンシング、eDNA分析、 citizen science など、新しい技術や手法の活用が進んでいます。重要なのは、設定した目標に対する進捗を客観的に把握することです。
ステップ6: 情報開示とコミュニケーション(Prepare - Disclosure)
ネイチャーポジティブへの取り組み状況、依存・インパクト評価の結果、特定されたリスク・機会、戦略、目標、そして進捗に関する情報を透明性をもって開示します。
TNFD開示推奨項目(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)に沿った開示が標準となりつつあります。統合報告書、サステナビリティ報告書、ウェブサイトなどを通じて、多様なステークホルダーに対して分かりやすく報告することが求められます。グリーンウォッシュと見なされないためにも、根拠に基づいた誠実な開示が不可欠です。
先進企業のケーススタディ(例)
ネイチャーポジティブへの取り組みは様々な業種で進められています。例えば、食品・飲料業界では、原材料の調達地の生態系保全に焦点を当てたサプライチェーンマネジメントの強化や、 Regenerative Agriculture (環境再生型農業)の支援などが行われています。建設業界では、建設現場での生物多様性への配慮、 green infrastructure の導入が進められています。金融業界では、投融資判断における自然関連リスク・機会の評価や、ネイチャーポジティブに資するプロジェクトへのファイナンスが増加しています。
これらの先進企業に共通するのは、ネイチャーポジティブを単なる環境対策ではなく、事業の持続可能性を高め、新たな価値創造につなげる戦略として位置づけている点です。
今後の展望と課題
ネイチャーポジティブへの取り組みは、まだ発展途上の分野です。今後の展望としては、以下のような点が挙げられます。
- グローバルな枠組みの具体化: 昆明・モントリオール生物多様性枠組(CBD COP15で採択)に基づき、各国で具体的な目標設定や政策導入が進みます。
- 開示基準の普及と進化: TNFDフレームワークがグローバルスタンダードとして定着し、より詳細かつ比較可能な開示が求められるようになります。
- 評価手法・ツールの発展: 生物多様性や生態系サービスを評価・測定するための技術やツールがさらに進化し、より正確なインパクト評価が可能になります。
一方で、企業はいくつかの課題に直面しています。
- データ収集の難しさ: サプライチェーン全体における生物多様性関連データの収集や、インパクトの定量化は依然として困難です。
- 目標設定の複雑さ: 生態系の多様性や地域性を考慮した、科学的根拠に基づいた目標設定には専門知識が必要です。
- 社内連携と能力開発: サステナビリティ部門だけでなく、調達、製造、研究開発、財務など、全部門での理解促進と連携強化が不可欠です。
まとめ:ネイチャーポジティブ経営への第一歩
ネイチャーポジティブ経営は、気候変動対策と同様に、現代企業にとって避けて通れない重要な経営課題となっています。生物多様性の損失は、事業継続に関わる深刻なリスクをもたらす一方で、新たなビジネス機会を生み出し、企業の長期的な価値向上に貢献する可能性を秘めています。
ネイチャーポジティブ経営の実践は、まず自社の事業活動と自然環境との関係性を理解することから始まります。依存とインパクトを評価し、リスクと機会を特定し、戦略と目標を策定し、具体的な取り組みを実行し、その効果を測定・評価し、ステークホルダーに開示するという、体系的なアプローチが有効です。
データ収集や評価手法など、まだ発展途上の部分もありますが、最新の情報やツールを活用し、先進事例から学びながら、一歩ずつ着実に推進していくことが求められます。ネイチャーポジティブへの貢献は、社会全体の持続可能性に貢献するだけでなく、企業のレジリエンスと競争力を強化する強力なドライバーとなるでしょう。