気候変動対策における公正な移行(Just Transition):企業のリスクと機会、実践的アプローチ
公正な移行(Just Transition)とは何か:企業が向き合うべき新たな視点
気候変動対策の緊急性が高まる中、産業構造や社会システムの変革が不可避となっています。この変革の過程で生じるであろう、労働者や地域社会への負の影響を最小限に抑え、社会全体として公平かつ包摂的な方法で持続可能な経済・社会への移行を実現しようとする考え方が、「公正な移行(Just Transition)」です。
当初は石炭産業など特定の高排出産業における労働者支援の文脈で語られることが多かったこの概念は、現在ではエネルギー転換に留まらず、サプライチェーン全体、地域経済、労働力育成、社会保障など、企業のサステナビリティ戦略における幅広い社会的な側面を含むものとして捉えられています。
企業は、自社の脱炭素化を進める一方で、そのプロセスが従業員の雇用、地域の経済活動、取引先への影響、消費者との関係などにどのように波及するかを深く考慮する必要があります。公正な移行への配慮は、もはや社会的な要請であるだけでなく、企業にとって新たなリスクや機会をもたらす経営課題となっています。
企業にとっての公正な移行に関わるリスクと機会
公正な移行への不十分な対応は、企業に様々なリスクをもたらす可能性があります。
リスク
- 評判リスク: 移行プロセスにおいて労働者や地域社会が不利益を被った場合、企業に対する社会的な非難が高まり、ブランドイメージの低下や不買運動につながる可能性があります。
- 法的・規制リスク: 公正な移行に関する新たな法規制(例: 特定産業における労働者保護措置、地域振興義務など)が導入される可能性があり、これへの不適合は罰則や事業継続への影響をもたらし得ます。
- オペレーショナルリスク: 従業員のスキルミスマッチによる人材不足、ストライキを含む労使関係の悪化、地域コミュニティとの摩擦などが、事業運営に直接的な支障をきたす可能性があります。
- サプライチェーンリスク: 取引先の移行プロセスにおける社会的な問題が、自社のサプライチェーン全体のリスクとなり得ます。
- 資金調達リスク: 投資家が公正な移行への取り組みをESG評価の重要な要素と見なすようになり、対応が遅れる企業は資金調達コストの上昇や投資からの除外(ダイベストメント)に直面する可能性があります。
一方で、公正な移行に戦略的に取り組むことは、企業に新たな機会をもたらします。
機会
- 新たな事業機会: 再生可能エネルギー関連、省エネルギー技術、リサイクルの高度化、グリーンジョブ創出に関連する新たな製品・サービス開発につながる可能性があります。
- イノベーションの促進: 移行に伴う社会課題解決に向けた取り組みが、新たな技術やビジネスモデル、人材育成プログラムなどのイノベーションを促進します。
- レジリエンス向上: 多様なステークホルダーとの強固な関係構築や、労働力の再教育・適応能力向上は、予期せぬ社会経済的変化への対応力を高め、企業のレジリエンスを向上させます。
- 人材確保とモチベーション向上: 公正な移行への貢献は、従業員のエンゲージメントを高め、優秀な人材を惹きつける上で有利に働きます。
- 企業価値向上: 信頼性の高いESG評価につながり、投資家からの評価向上や、長期的な企業価値の向上に貢献します。
企業が取り組むべき公正な移行の実践的アプローチ
企業が公正な移行を経営戦略に統合し、リスクを管理しつつ機会を最大限に活かすためには、以下のような実践的なステップが考えられます。
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現状評価とリスク・機会の特定:
- 自社の事業活動(直接的な操業、サプライチェーン、製品・サービス)が、公正な移行という観点からどのような社会的な影響(雇用への影響、地域経済への影響、人権問題など)をもたらしうるかを評価します。
- 特に、脱炭素化目標達成に向けた具体的な計画が、労働力構成や地域の産業構造に与える影響を詳細に分析します。
- 労働組合、地域住民、供給業者、顧客など、主要なステークホルダーを特定し、彼らが公正な移行に関して抱える懸念や期待を理解するための初期的なエンゲージメントを開始します。
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公正な移行を組み込んだ戦略策定:
- 特定されたリスクと機会を踏まえ、企業のサステナビリティ戦略や気候変動戦略に公正な移行の視点を明確に組み込みます。
- ステークホルダーとの継続的な対話を通じて、移行プロセスにおける企業の役割やコミットメントを定義します。
- 労働力の再教育・スキルアップ支援、影響を受ける可能性のある地域経済への投資、新たなビジネスモデル開発、サプライチェーンにおける公正な移行の促進などを盛り込んだロードマップを策定します。
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具体的な施策の実行:
- 労働者への配慮: 事業構造転換に伴う雇用調整が必要な場合、可能な限り配置転換や早期退職支援プログラム、退職後のキャリア支援などを実施します。将来必要とされるスキルに関する従業員の再教育・研修プログラムに投資します。
- 地域社会との連携: 事業所閉鎖や縮小が地域経済に与える影響を緩和するため、地域社会の代表者や自治体と連携し、代替産業の育成支援、地域雇用の創出、インフラ整備への貢献などを検討します。
- サプライチェーンへの働きかけ: サプライヤーに対して、公正な移行への配慮を促し、サプライチェーン全体での社会的なリスク低減に協力します。
- 社会保障・人権への配慮: 移行プロセスにおいて、国際的な人権基準や労働基準を遵守し、脆弱な立場にある人々への配慮を怠らないようにします。
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情報開示と透明性の確保:
- 公正な移行への取り組み状況、関連するリスクと機会、およびその管理方法について、サステナビリティ報告書や統合報告書で積極的に開示します。
- TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)やTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)といった既存の開示フレームワークは、物理的リスクや移行リスクに加え、社会的な側面に関する情報開示の議論も進んでおり、これらを参考に開示内容を検討することが有効です。
- 特に、IFRS S1(サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項)やIFRS S2(気候関連開示)では、価値チェーン全体のリスク・機会、及びステークホルダーとの関係性に関する開示が求められており、公正な移行に関する取り組みはこれらの開示要求に応える上で重要な要素となります。
今後の展望と課題
公正な移行は比較的新しい概念であり、企業の実践方法や評価指標については、今後も議論が深まっていくと予想されます。特に、取り組みの「公正さ」をどのように測定し、効果を評価するかは大きな課題です。
企業は、一方的な施策実施に留まらず、影響を受けるステークホルダーとの継続的かつ実質的なエンゲージメントを通じて、彼らの声に耳を傾け、共創的なアプローチを模索することが不可欠です。また、政府や国際機関、非営利組織との連携も、広範な社会課題である公正な移行を実現する上で重要な鍵となります。
公正な移行への取り組みは、単なるCSR活動ではなく、企業が持続可能な社会の一員として長期的な存続と成長を目指す上で、不可欠な経営戦略の一部として位置づけられるべきです。気候変動対策を推進する企業にとって、公正な移行への真摯な対応は、社会からの信頼を獲得し、企業価値を持続的に向上させるための重要な要素となるでしょう。