企業が取り組むべきTCFD/TNFDの実務:気候変動リスクと機会の評価・開示戦略
はじめに
企業のサステナビリティ戦略において、気候変動および自然関連のリスクと機会の評価と開示は、ますますその重要性を増しています。特に、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)および自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)が推奨するフレームワークは、グローバルな開示基準のデファクトスタンダードとなりつつあります。これらの開示要求は、単なる情報公開にとどまらず、企業の戦略、リスク管理、ガバナンス体制の根幹に関わる実務的な対応を求めています。
本稿では、TCFDおよびTNFDの実務対応に焦点を当て、特に実務担当者が直面するであろう課題と、それらに対する評価・開示戦略のポイントを解説します。最新の動向を踏まえつつ、企業がどのように気候・自然関連の情報を収集・分析し、戦略に統合し、効果的に開示していくべきかについて掘り下げます。
TCFD開示の現状と実務課題
TCFDは、気候変動が企業にもたらす財務的な影響について、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」の4つの柱に沿った開示を推奨しています。多くの企業がTCFD提言への賛同を表明し、開示を進めていますが、その質や深度にはばらつきが見られます。
TCFD対応における実務課題
- シナリオ分析の難しさ: 1.5℃、2℃といった異なる気温上昇シナリオが事業にもたらす潜在的な影響を評価することは、データや分析手法の制約から依然として大きな課題です。複数のシナリオを設定し、それぞれの前提条件を明確に定義する必要があります。
- データ収集と精度: 気候関連のリスク・機会に関するデータは、自社内だけでなくサプライチェーン全体にわたることが多く、その収集・集計・分析には多大な労力を伴います。特にScope 3排出量の算定や、物理的リスクの評価に必要な地理情報、資産情報を網羅的かつ精度高く収集することが求められます。
- 部署横断的な連携: TCFD対応は、サステナビリティ部門だけでなく、経営企画、財務、リスク管理、各事業部門など、複数の部署との連携が不可欠です。組織横断的な体制構築と、共通認識の醸成が重要となります。
- 「機会」の特定と評価: リスクに比べて、気候変動がもたらす事業機会(例:再生可能エネルギー事業、環境配慮型製品・サービス)の特定や、それが財務にもたらす影響の評価は、まだ十分に深掘りされていないケースが見られます。
実務対応のポイント
- 段階的なアプローチ: 最初から完璧を目指すのではなく、可能な範囲から開示を開始し、徐々に範囲と深度を拡大していく現実的なアプローチが有効です。
- 既存の経営計画やリスク管理プロセスへの統合: 気候変動関連の評価・管理プロセスを、既存の企業リスク管理(ERM)や事業計画策定プロセスに組み込むことで、実効性を高めることができます。
- ツールの活用: シナリオ分析支援ツールやデータ管理プラットフォームの活用も検討することで、作業効率と分析精度を向上させることが可能です。
- ステークホルダーとの対話: 投資家や顧客など、主要なステークホルダーがどのような情報を求めているかを把握し、開示内容に反映させることも重要です。
TNFD開示の概要とTCFDからの拡張
TCFDが気候変動に焦点を当てているのに対し、TNFDは気候変動以外の自然資本に関わるリスクと機会(生態系、生物多様性、水資源、土地利用など)に焦点を当てた開示フレームワークです。2023年9月に最終提言が公表され、これから多くの企業が対応を始める段階にあります。
TNFDの特徴とTCFDからの拡張点
- 「自然関連」への焦点: 気候変動だけでなく、生態系の劣化や生物多様性の損失など、自然環境の変化が企業活動や財務にもたらす影響を対象とします。
- LEAPアプローチ: 自然関連のリスク・機会を特定・評価するためのプロセスとして、Locate (特定)、Evaluate (評価)、Assess (分析)、Prepare (準備) の頭文字をとった「LEAPアプローチ」を推奨しています。特定の事業活動やアセットが、どのような自然環境に依存・影響を与えているかのマッピングから開始します。
- 地理的な視点: 自然資本は地域性が高いため、特定の事業所、サプライヤーの所在地など、地理的な情報を踏まえた分析が不可欠となります。
- TCFDとの親和性: TNFDの推奨項目はTCFDの4つの柱と整合しており、TCFD対応を進めている企業は比較的スムーズにTNFD対応に移行しやすい構造となっています。
TNFD対応の実務への影響と準備
TNFD対応は、企業にとって新たな視点でのリスク・機会評価とデータ収集を必要とします。
TNFD対応における実務課題
- 自然関連データの不足: 気候関連データと比較して、自然資本に関する定量的なデータは標準化が進んでおらず、入手や分析がより困難な場合があります。特定の生態系サービスへの依存度や、事業活動が与える影響を定量的に評価するための手法開発やデータ整備が課題となります。
- サプライチェーンの影響: 多くの自然関連リスク・機会は、サプライチェーンの上流(原材料調達など)や下流(製品使用・廃棄)に存在します。サプライヤーとの連携強化や、サプライチェーン全体の自然関連リスク・機会の評価が必要になります。
- 専門知識の必要性: 生態系、生物多様性、水資源管理など、従来の企業活動ではあまり関わりのなかった分野の専門知識が求められることがあります。社内外の専門家との連携が重要です。
実務対応のポイント
- パイロット分析の実施: まずは特定の事業所や製品ラインなどを対象にLEAPアプローチを試行し、実務的な課題や必要なデータ・知見を洗い出すことから始めることが有効です。
- 既存の環境管理システムとの連携: ISO 14001などの既存の環境マネジメントシステムで収集している情報や構築しているプロセスをTNFD対応に活用できないかを検討します。
- 生物多様性オフセットやサプライヤーへの要請: 事業活動による自然への影響を軽減・回復するための具体的な取り組み(例:生物多様性オフセット、持続可能な調達基準の設定)をTNFD開示と関連付けて示すことも重要です。
- ツールとデータの活用: 自然関連リスク評価ツールや、生物多様性・生態系に関する公開データベースなどの活用を検討します。
TCFD/TNFD統合開示と今後の展望
気候変動と自然資本は密接に関連しており、両者を統合的に捉え、開示していく流れが進んでいます。
統合開示の重要性
気候変動は異常気象を引き起こし、それが水資源や生態系に影響を与えるなど、両者は相互に関連しています。また、自然環境の保全や回復は、気候変動の緩和や適応にも貢献します。TCFDとTNFDのフレームワークは整合性が高いため、両者を合わせて開示することで、企業を取り巻く環境関連のリスクと機会をより包括的にステークホルダーに示すことができます。
ISSB等他の基準との連携
国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)が公表したIFRS S1(サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項)およびIFRS S2(気候関連開示)は、TCFD提言をベースとしています。今後、ISSB基準に準拠した開示が義務付けられる国・地域が増えるにつれて、TCFD対応は必須となります。TNFDもISSBとの連携を進めており、将来的に自然関連開示がISSB基準に取り込まれる可能性も示唆されています。これらの国際的な動きを常に把握しておくことが、実務担当者にとって不可欠です。
今後の展望
TCFD/TNFD開示は、単なる報告要件への対応に留まらず、気候変動や自然資本がもたらす変化を経営戦略の中核に位置づけるための契機となります。リスクを機会に変え、持続可能なビジネスモデルを構築していく上で、これらのフレームワークを活用した深い分析と透明性の高い開示が、企業のレジリエンスと競争力強化に繋がるでしょう。実務担当者には、これらの最新動向を捉えつつ、自社の状況に合わせた実践的な対応を進めていくことが求められます。
結論
TCFDおよびTNFDが示す気候・自然関連の財務情報開示は、企業にとって避けて通れない重要な経営課題となっています。これらのフレームワークに基づいたリスク・機会の評価と効果的な開示は、ステークホルダーからの信頼獲得や資金調達の観点からも、企業価値向上に貢献するものです。
実務担当者としては、TCFDで培った経験を活かしつつ、TNFDが求める自然関連の視点を取り入れ、データ収集、リスク・機会評価、シナリオ分析といった各プロセスにおいて、既存の体制やプロセスを強化・拡張していくことが重要です。また、ISSBなどの国際的な開示基準の動向を注視し、将来的な義務化を見据えた準備を進める必要があります。気候変動と自然資本の課題に積極的に向き合い、それを経営戦略と一体化させることで、企業は変化の激しい時代においても持続的に成長していく力を養うことができるでしょう。